父は74歳で発病し、75歳で天国へ旅立っていきました。まだまだ元気に生きたかった父。
免許更新したい。母と一緒に北海道旅行したい。そんな父の気持ちとは裏腹に病状は進んでいきました。
父の最後を考え家族で悩んだ末、父へ余命告知をしました。今日は余命告知のお話です。
悪性リンパ腫と闘う父の看取り
私の父は悪性リンパ腫で亡くなりました。
※悪性リンパ腫:白血球の一種であるリンパ球ががん化して異常増殖する血液がんの一種。
左手が腫れてきたことから病気が発覚。どんなに辛い治療にも泣き言ひとつ言わずに耐えてきた父。自分にできることは何でもしようと、自主的にリハビリにも取り組んでいました。看護師さんの話によると、歩く力を失わないようにと、いつも病棟内を歩行器で歩いていたそうです。抗がん剤で髪の毛が抜けてしまっても「次はきれいな髪が生えてくるから楽しみだ」と、何でも前向きに捉えようとしていました。身体も心も辛かったと思います。それでも父は生きたかった。生きることを諦めたくなかったのです。

父ならどうしたいかを考え余命告知することを選ぶ
悪性リンパ腫であることは発病当初に医師から聞いて知っていた父。自分の身体の変化と向き合い、私たち家族に不安を悟られないよう前向きに治療に臨んでいました。
しかし思った以上に治療効果はみられず、がんは肺にも転移。
医師から父の命が長くないことを聞かされた私たち家族。父への余命告知をどうするか?の問題となりました。
このまま父に知らせなかったら?
病状が進行すれば父は気付くだろう。
私たち家族も父へ嘘をつくことはできない。

父自身で自分の残された時間の使い方を決めるべきだ。
人にできるだけ迷惑をかけたくないと思っている父だからこそ、身の回りのこと(身辺整理)も父自身の手でさせてあげたい。親戚や親しくしている人へ伝えたいメッセージがあるなら、父自身の言葉で伝えさせてあげたい。
そして私たち家族は父へ余命告知することを決めました。
告知の日の絶望
その日、父のことが心配だった私は父に付き添うことにしました。父は先生方の話を静かに聞いていました。
「もう治らんとですか?」そう力なく聞き返す父。打ちひしがれたような、なんとも言えない父の表情。
今でもあの日の父の表情は忘れられません。
医師から余命告知を受けた後、
「先生から見放された…」と吐き捨てるように言った父。絶望感に支配されていたと思います。

私がどんな言葉をかけても気休めでしかなく、「お前は死ぬって言われた者の気持ちがわからんとか!」と悲しみ・怒りが混ざったような感情をぶつけてきました。
私には父の言葉・思いを受け止めること、父の傍に居ることだけしかできませんでした。どうすることが正解なのかわからず過ぎていく時間。父は自分自身と向き合うかのように静かに考えていました。
食べて元気になろうとした父
長いような短い時間、ずっと父は一人で考えていました。そして「食べて元気になる!先生が治しきらんなら自分で治す!」と言ったのです。父の中では治らないことはわかっていたと思います。けれど、それでも前を向いて生きたいと願ったのです。

そんな父の覚悟を聞き、改めて父の時間を大切にしたいと感じました。
父はできるだけ口から食べることを選び、結果として亡くなる2日前にも家族で外食へ。最後の食事はウニとビール1口ずつ。なかなか贅沢ですよね!
そして「食べて治す」行動と共に、兄と一緒に身辺整理も進めていました。家のこと、仕事関係のこと、保険のこと、貯金のこと…
一つずつ整理していました。

私たち兄妹の経済状況も聞き「それなら安心だな」と安堵したような表情を見せる父。いつまでも家族の身を案じ大切に想ってくれる優しい父でした。
余命告知は人それぞれ。一人ひとりに合った判断が必要
私の父に関しては余命を告知したことで、父の人生の時間を大切にできたと感じています。
余命を告知しなくとも、身体が動かなくなり食事も取れなくなってくると、人は人生の残り時間を意識すると思います。そのときに「大丈夫だよ!元気になるよ!」と伝えられたら?
ホッとしますか?不信感を持ちますか?
父はたぶん後者でした。

だから私たち家族は余命告知を選択したのです。人それぞれの性格があるので何が正解とは言えません。一人ひとりに合った判断が必要になるでしょう。だけど、その中で互いのことを思い合って選択したことであれば、それが一番最善であったと言えるのではないでしょうか。
この記事が悩んでいる方にとって、少しでも参考になれば幸いです。
今日も皆さんと、皆さんの大切な方が幸せを選んでいけますように。
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